総武道傳承連合会 

 

「武」は殺伐なものではなく、神武不殺であり、天下事なく平和であることが武の理想であると、各武術の流祖は皆これに行き着き、その理想を「形」にして込められたと思います。 

正しい流儀の保存と伝承は、習う者の使命と自覚し、時流に流される事なく伝えていかなくてはならないと思います。 

業(武術)は、軍事的な資質を持つことは周知の通りですが、それは形稽古の中に、戈止みの理想と同時に組み込まれています。戈止みの武術の形を、泰然と披露し、各流派の特色たる業を殺す事なく古(いにしえ)からの武術を伝承する場を設けると同時に、真の武術の伝承に賛同し参加してくれる老若男女を増やさなくてはいけない、との強い想いの下、団体の設立を決意致しました。 

設立 2017年


  • 団体設立発起人代表 

  総武道傳承連合会会長 

 一貫流継承伯耆流居合術十四代 沖本 一雄 

  • 発起人 

 総武道傳承連合会副会長 

 禾眞流聡武道刀技居合道二代宗家 井上 英樹 

  • 発起人 

 神抜神見流二十一代 上久保 方視 


  • 発起人 

 士貫流捕手剣法八代宗家 柳川 満信 



加盟団体

日新館

(広島道場・岩国道場)

  • 一貫流継承伯耆流居合術
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一貫流継承伯耆流居合術
伯耆流の開祖は片山伯耆守藤原久安です。豊臣秀吉の最盛期から江戸幕府初期にかけて活躍しました。京の愛宕神社で夢に「貫」の一字を悟り、流儀を開いたと言われています。
関白・豊臣秀次、秀頼を指南し、その名声は高まり、慶長十五年(1610年)には、後陽成天皇の御前で「磯波(いそのなみ)」を天覧に供し、従五位下・伯耆守に叙任されたと伝えられています。
大阪夏の陣(1615年)では大阪方で参戦し、豊臣家が敗れた後は二君に仕えるを潔しとせず、諸国を廻り、安芸(広島県)を経て1616年に周防(山口県)の岩国を訪れ、岩国藩主吉川広家に賓客の礼をもって迎えられました。岩国を永住の地と定め、その子吉川広正を指南しました。その後、久安公は岩国で没し(1650年)、墓は現在の岩国市錦見にある普済寺に祀られています。
久安公は、争いに至る前に平和に解決することを最上とし、武の修練は自分の身を守るための手段であることにみならず、平らかな精神状態を保つための精神修養でもあるという考え方でした。この精神は伯耆流の武技にも色濃く反映しています。

  • 士貫流捕手剣法 
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士貫流捕手剣法
士貫流捕手剣法は、江戸時代後期に齊藤頼重公によって「己に克ち、慈しみ深く高潔の道を歩む」という士道を貫くことを目的に創案され、剣術・居合術・組討・整体術の四芸からなる総合武術です。
流祖齊藤頼重(号を貫岳)公は、文政年間会津に生まれ、父・久兵衛宣政より溝口派一刀流と竹内流柔術を学び、のちに一子新一郎宣親と共に諸国を廻り、山口県熊毛に定住した後、各流派を統合し流派を起こしました。
二代を継いだ宣親は、戊辰戦争後の会津出身者討伐から逃れるため熊毛を離れ、岡山県真庭の木山に移り、頼重の「表に出ぬよう」との遺言により、流派は内々に伝えられました。

四芸を本傳としていますが、剣術居合術のみも允可しています。

神抜神見流

  • 神抜神見流の流れ 
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[由来] 

元々は、弓術が大本であったが、大宝元年(702年)高市之王子が、木曽山中で修練の末長短の棒術を創案し、高市流と名付けたのが始まりで、その後、仁平3年(1153年)源三位頼政という人が出て多くの武勇伝を残し、この人が再び弓術を世に広めた。 

慶弔11年(1606年)武州(埼玉県)の住人浅野紀伊守家臣、池水将監源家治も三十三間堂通し矢で射術2345本を放つなど数々の武勇あげた。さらに、元禄14年(1701年)池水丹治源光森が、関東のある神社に百日参籠三七日断食の末開眼し、高市流から離れ、神抜神見流と改め、長短の棒43本を極める。その後、享和3年(1803年)周防の住人、河野通勝から河野丈五郎通資が棒術を伝授された後、文化14年(1817年)風心流鎖鎌15本、小野流小太刀12本、手裏剣技数々を、萩の在木村又兵衛橘輝房より伝授されたものである。 

また、河野通勝は、鎌倉時代の武将河野通有の流れをくみ、南北朝動乱の折、伊予水軍を率いて足利氏に味方、戦功で大内氏とともに周防に入り、長門、安芸、石見、豊前、筑前、六国の守護となった人である。 

幕末から明治にかけ、東本新兵衛源繁敏に承継され、明治27年10月中本繁次に伝授、その後繁次の孫中本積が伝承し、現在に至っている。 

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元祖 高市之王子大政大臣 高市流(弓術、棒術) 

源三位頼政 同上 
上総之亮廣常 同上 

 ~ 

七代 ‐池水将監源家治 同上 

八代 ‐池水丹治源光森 神抜神見流と改める 

九代 ‐上村武左衛門直次 同上 

十代‐ 飯田新右衛門春元 同上 

十一代 ‐佐藤定安伊信 同上 

十二代‐木村又兵衛橘輝房(小野流小太刀、風心流鎖鎌、手裏剣術) 

十三代 ‐河野丈五郎通資 神抜神見流・小野流小太刀・風心流鎖鎌・手裏剣術 

十四代 ‐河野龍五郎通成 同上 

十五代 ‐河野彌太郎通春 同上 

十六代 ‐河野市松信通 同上 

十七代 ‐河野剴兵衛通明 同上 

十八代 ‐東本新兵衛源繁敏 同上 

十九代 ‐中本繁次 同上 

二十代 ‐中本積源英峰  神抜神見流、小野流小太刀 風心流鎖鎌、手裏剣術 

二十一代 ‐上久保方視 同上 

  • 古武道をしてみませんか 
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忘れかけられていますが、2001年、大阪教育大付属小学校の無差別殺傷事件のような凶悪な事件はいつ起こるかしれません。このような犯罪に対して、自分の身ならず子どもたちの命を守るためにも、古武道は少なからず役に立つ武術です。その一つに、小野流小太刀があります。小太刀といっても、実際に手にするものは、40センチ前後の棒が主なものです。 

ですから、この業を習得すれば、ちょっとした棒でも、すりこぎでも、ものさしでも、何でも手にすれば応用が利きます。 

1, 小野流小太刀は全部で業は12本しかありません。そのうち基本技は10本です。誰でも簡単に覚えることができ、実際にも役立つ業です。 

1、向 入  2、裏 入  3、三ツ之手   4、破軍開  
5、額 留 6、打 返7、兜巾返  8、阪手車  
9、胸留打 10、胸留突
 

2, また、鎖鎌もしております。
全国的にも鎖鎌をする道場は多くはありませんが、そのうちの一つで、風心流鎖鎌といいます。基本技1本から10本まであります。 

鎖で受ける技、相手の打ち込みを避けて、鎌で打ち取る技の10本です。 

これも是非、興味を持って参加していただければ幸いです。 

それと、古武道ですので、袴と武道着は用意していただくことになりますので、ご了承ください。 


  • 神抜神見流の連絡先
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神抜神見流、小野流小太刀、風心流鎖鎌

二十一代  上久保方視(かみくぼまさみ)


 TEL 082-233-3009

※毎月第二日曜日、広島市中区堺町本川十日市集会所で

 午前9時00分から12時00分、稽古をしています。

禾眞流聡武道刀技居合道

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流祖油井證眞(当時81歳)は半世紀以上に渡る武道修業の経験と「武道とは心である」という信念の基に、それまで在籍してきた連盟や団体、流派を抜け、2007年に独自に居合術と護身術の新興流派である禾眞流を興しました。
正式名称は「禾眞流聡武道」(かしんりゅうそうぶどう)、武道を聡明に捉えるという意味合いを持ちます。臨済宗の西山禾山老師より一字をとり、外見では無く心の根底にある眞を会得するためと名づけられました。
当流では「和」(心の平和)に重点を置いて稽古をしています。力任せや殺伐としたものではなく、静かに呼吸や心を整え、細かな身体の働きを注視しながら流祖の残された形稽古を中心として稽古をしています。

鹿嶋神伝直新影流

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鹿嶋神伝直新影流は、松本備前守を流祖とします。
室町時代後期、永正年間(1504~1520)に、陸奥の国(現在の茨城県)鹿島神宮で、神のお告げにより、神社の御神木である桜の枝で木刀を作り、鹿島大神から剣術の型として「法定之型」が伝授されたと伝承されています。
この「法定之型」は明治後期から昭和初期には、第15代山田次郎吉から、茨城県水戸市内原にある日本国民学校(現在の日本農業実践学園)の校長加藤完治に継承されました。さらに警視庁剣道名誉師範を務めた小川忠太郎によって、剣道界に広く紹介され、そして奨励されました。
広島へは、加藤完治の教え子であった石井靖千によって伝えられました。

天成流合気古武術

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天成流の「天成(てんせい)」とは、大和読みでは「アマナリ」と申しまして、神代の時より確かに存在した「道」であります。
〇天成の道(アマナリノミチ):宇宙と一体となる道
〇鈴明の道(スズアカノミチ):執着を捨てる道
〇陰陽の道(メオノミチ):完全調和の道
この三種(ミクサ)の道は、宇宙大に広がる「ヒビキ」そのものであります。この「ヒビキ」こそが、やがて「武」の本質・骨子となる「心」を創り出し、その「心」が「技」を産み出し「技」と同時に身体にその「ヒビキ」を浸透させた「合気」が生まれました。それを「武産合気(タケムスアイキ)」と申しまして、我が天成館道場の指標となるものです。
日々研鑽し、心を研ぎ澄まし、武術的身体を練り上げることこそが我らの「目的」であります。
弱肉強食の力の世界では、到底行き着くことのできない「真の平和」を愛する武人の道であります。

愛洲影流継承広島柳生新影流兵法

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天文年間の頃、上泉信綱が、愛洲移香斎の影流を学んでその奥義を習得、更に松本備前守の鹿島新流に己が創意工夫の剣を加えて大成し、後に影流に新の一字を加えて、新影流と号した。
この流を、柳生宗厳が継承して、柳生新影流を創始した。
柳生新影流を創始した柳生宗厳より許可と柳生の姓を受けた柳生家臣の大野松右衛門家信が長州萩藩に、次代有地元勝は柳生内蔵助として島津藩に、後代三宅重栄以降は黒田藩に、それぞれ武術指南として居住した。
後代三宅継信は柳生新影流第十二世宗家と伴に、伯耆流居合術の第二十六世宗家であったことから、次代蒲池鎮浪は、昭和17年10月に、福岡藩伝柳生新影流居合術十三代宗家、伯耆流居合術第二十七世宗家を継承した。
上籐朗は、昭和38年1月、蒲池鎮浪宗家の元に入門し、35年に及ぶ指導を受け、昭和58年10月吉日免状・皆傳、昭和60年5月に日本居合道連盟居合道教士、平成9年6月吉日に許可状免許皆傳となり、福岡藩伝を外して愛洲影流十四代を継承し、広島柳生新影流兵法初代として巻物一巻を授かって許可され、広島に道場を設立し、剣法、組太刀、小太刀、無刀取、体術、鉄扇術、杖術の指導を行っている。
また、柳生の地にて伝承されている長谷川流棒術を、十一代宗家長谷川秀子から教授を受け、基本技と組太刀に取りかかる前の構えを継承し、教授を受けた業については、長谷川宗家から広島柳生新影流兵法への編入の了承を得て広島柳生棒術として指導している。